ひまわり君の生い立ち
私は、少年時代から水泳と柔道をしていました。私は体が小さく、それほど素晴らしい選手ではありませんでしたが、水泳で自己ベストを出した時や、体の大きな相手を背負い投げ・一本背負い・足技で投げた時に、スポーツの素晴らしさを感じていました。
高校を卒業してファッションの専門学校に通いました。初めはデザイナー志望でしたが、小学生の頃から公文式に通って、数学(図形)が得意だったので、パタンナーになる事にしました。専門学校で、パターンメイキング・ドレーピング・数学で製図を作る方法・文化式、様々な製図を勉強しました。専門学校を卒業して、神戸のポートアイランドの中堅アパレルメーカーに就職が決まりました。 その頃は、日本がバブルの時代で、「24時間働けますか?」などのキャッチフレーズが流行った時代でした。毎日、終電で帰る日々が続きました。会社に入社して2年目の冬に、風疹にかかり痛んでいた胃腸をやられて入院しました。40日間の入院でした。病名は「過敏性腸症候群・胃潰瘍」でした。会社に帰ってくると仕事がありませんでした。その後、高級婦人服のブランドから、カタログ販売のブランドのサポートと、ユニホームのブランドの専属パタンナーになりました。初めの頃は、小口の仕事ばかりで、縫製工場を見つけるのも大変でした。それからしばらくして、グッチから仕事の依頼がありました。その時、私はグッチを知りませんでした。それから、大口の仕事が来る様になり、ヴァレンティノの仕事がきました。流石の私もヴァレンティノは知っていました。その時、初めてプレッシャーを感じました。その仕事は、見本がサンプルだけだったので、東京の顧問の先生に仕事を依頼しました。その後、シルエット見本が出来て、デザイン変更があり、先輩と顧問の先生と私で悪戦苦闘しながら、作品を仕上げました。それは、最高の出来上がりでした。
その後、時間があったので、アンロワイヤルのシルエットサンプルを作成しました。それを顧問の先生に見せて修正サンプルを仕上げました。それから、数多くの海外のブランドの仕事や、商社・銀行・会社、様々な仕事をこなしました。ある朝、寝坊してタクシーに乗り会社に向かう途中、後ろの車に追突されて、鞭打ちになりました。それから、それまでの様に仕事が出来なくなったのと、机の上だけで、製図を考えるのに限界を感じていたので、サンプルと先上げの部署に異動になりました。 その部署には先輩のパタンナー2人・縫製スタッフ・女性の職員2人・新入社員2人と私がいました。私は縫製仕様マニュアル作り(CAD)・仕上げプレス・先上げの管理をしていました。仕事は、毎日順調に進んでいました。先輩・上司・同僚との関係が良く、何よりも、一人ではなく、チームでする仕事の違いを身に染みて感じました。そんなある日の夜中、激しい縦揺れと、横揺れに見舞われました。阪神淡路大震災、神戸の街はグチャグチャでした。水道管破裂・ガス管破裂・道路は凸凹で、ビルが倒れて道をふさいでいました。会社の社員は、東京・大阪・西神中央・ポートアイランドに分かれました。私達の部署は、ポートアイランドに残りました。生産部の課長と、生産部の事務員の同期の女性も残りました。先輩は、皆と待ち合わせして車で迂回しながら通勤しました。私は原付で明石からポートアイランドまで通勤しました。仕事中に余震がありました。水が止まっていたので、簡易トイレを会社が用意してくれました。水は先輩が家から運んでくれました。朝、その水をポットで温めて皆でコーヒーを飲みました。厳しい年でしたが、皆の頑張りで、検品通過率過去最高の85%を出す事が出来ました。しかし、女性社員がたくさん辞めて、そのシワ寄せが私達の部署にもありました。納期ギリギリの仕事を皆で必死になってやりました。だんだん食欲がなくなってきていました。社員食堂で、定食の券で、うどんを頼んで4~5本うどんをすすって、後は捨てていました。絶えず胃の痛み、下痢を繰り返していました。体はアイロンで火傷をしても分からないほど神経が鈍感になっていました。体重が48㎏になっていました。私は、朝夕痛み止めの注射を打ちながら通勤しました。帰りに、自宅から最寄りの駅までの5分の距離をもうろうとしながら1時間ぐらいかけて帰った事がありました。そして、主治医にその事を伝えたところ、ドクターストップで会社を辞める事になりました。26歳の冬でした。
それから、闘病生活の始まりです・・・・・・・・・。
ひまわり君
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